神仙思想は紀年前4世紀ごろの戦国時代に山東半島や華北において方士が神仙の存在と不老長生を説いたのが始まりとされる[6]。春秋後期、不老長生という伝説の現れは神仙思想の生まれを象徴し、さらに蓬莱に関する神仙説のブームに至って、神仙思想が正式に確立されたというプロセスを辿ってきた。神仙思想は歴史的にみれば、秦の始皇帝や漢の武帝といった権力者の「不死」の願望のもとに発展したものである。
神仙思想の基礎となる神仙信仰はずっと前から存在している。神仙信仰は中国古来固有の民間信仰から由来し、戦国時代以降、燕の昭王、秦の始皇帝、漢の武帝などの帝王の提唱により、神仙伝説、神仙信仰が盛んになり、両漢の神学的な社会雰囲の中でさらに成熟して、後に道教の中心的教説として取り入れられ、老子・荘子・葛洪などの思想家、文学家の手で、それぞれ論理構築のため、あるいは文学想像のために素材として使われ、神話的な原始信仰の断片もだんだんまとめられ、最終的にはその基礎を築いて具象した神仙思想になることと思われる。[7]
『荘子』[8]は神仙思想の一つの代表作品であり、『南華真経』とも呼ばれ、初めて「仙」と「道」を結びつけ、道教学説と神仙思想の発展を促進した[9]。『荘子』の著者荘子は中国の戦国時代に産まれた思想家であり、道教の始祖の一人とされる人物である。『荘子』の中に描かされた「神人」のような存在が後世の「神仙」と本質的にはほとんど区別がないと思われる。だから、荘子は初めて具体的な神仙形象を描いた最初の一人とも言えるだろう[10]。
公元7世紀ごろ、大量の中国文学と共に、中国道教の神仙思想も日本に広まってきた。考古学面における成果と比較した結果、10世紀ごろの道教思想について、文献面での研究はまだ十分に進んでいないのではないかと思っている。道教研究は十分になされてこなかったことには、一つの原因が考えられる。飛鳥時代、道教思想は頂点を迎えたが、8世紀中期ごろ、時代思想としての仏教が道教思想の地位を完全に占めてしまったといえる。そして、仏教の時代が続いて、ますます道教研究への契機を少なくしたと考えられる[11]。特に、道教の中核的思想とする神仙思想とその時代の文学作品との関係についての研究は比較的に少ないとも言えるだろう。
『竹取物語』の全文から見れば、月からの天人・不死の薬・天に昇ることなど,源^自#优尔*文·论~文]网[www.youerw.com、神仙思想に深くかかわる内容が多いから、道教の神仙思想からの影響を受けたことが見られる。もちろん、『竹取物語』における神仙思想は『荘子』という作品のみから流出してきたことではない。先行研究では、『竹取物語』の神仙思想について、あるいは『荘子』の神仙思想についての研究は多いと思われる。例えば、小川光暘は『竹取物語』が中国の道教思想を受け入れたことと指摘している。また、安藤重和や渡辺秀夫などの学者は、『竹取物語』が『淮南子』、『山海経』や『神仙伝』などの中国古典からたくさんの部分を引用したことを指摘している。しかしながら、『荘子』と『竹取物語』との関係について研究する文献は少ないし、また、テクスト分析と比較対比分析が足りないと思われる。そこで、本文は神仙思想の代表作品『荘子』をめぐり、『竹取物語』における神仙思想について、テクスト分析・対比・比較などの研究方法を使い、中国道教文化からの継承・発展・転移・変化、そして神仙思想は日本に広まってから、日本文化に如何なる役割や影響を及ぼしたかを追跡し、研究してみたると思っている。