家康は武力で諸侯を押え、儒教の修身、斉家、平天下の言葉のように、道徳政治で天下の秩序を保とうしたのである。最初、広く伝わったのは朱子学で、幕府の体制が固まるとともに、朱子学はがますます日本儒教の中心勢力になった。その後、儒学は倫理学問を重視し、すなわち実学に力を入れた。政治には反映したのは、尊貴と卑賎の区別や地位身分のことだったのに対して、道徳に反映したのは、仁義忠孝説に人気があったことだった。それによって、一部分の儒学家に承認された。最後、人間の感情や感覚をそのまま肯定し、主情主義の人間観に立って、儒学に新しい道を開いたのであった。町人の立場を踏まえ、天理人欲を否定し、かえって私欲と好色を強調したこともあって、町人階層が軽視されられなくならない、次第に社会的威力を発揮してきた。
儒教は各蕃校、塾あるいは寺子屋などの教育機関を通じて授けられたが、儒学の庶民化という特徴もはっきりしていた。したがって、江戸から明治の中ごろまでの日本人の道徳的背骨は儒教によって繰られたといっても過言ではないであろう。その原因だからこそ、町人の自己主張を代表した江戸しぐさも現世役で日本人に影響を及ぼしている。
3 江戸しぐさの誕生と系譜
3.1 商人自身の教養
江戸時代の庶民のうち、武士を農、工、商に優越したものと前提して、農民は食料を生産し、職人は諸道具を製作するが、商人はただ食糧の流通を助けて売買による利益を求め、私利を追求することが軽視されがちだった。しかし、1615年の「大阪夏の陣」以降、徳川幕藩体制は強固なものになった。ただし、「大阪夏の陣」で戦場となった大阪の復興は商人の力を借りなければ進まなかった。したがって、秀吉以来の「豪商を利用して町づくりや自治、経済活動を展開する」という統治原理を家康はそのまま採用した。その結果、武士優先の建前は次第に揺らいだのと反対に,商人の蓄積した富は段段社会的威力を発揮し、前にもまして勢力も増大してきた。そして、「大阪の豪商ひとたび怒れば、天下の諸侯みな震え上がる。」といわれるように、実力を持った富豪は支配階級に影響した。
だが、江戸時代の経済繁栄は享保から景気が後退し始まって、前から蓄積した莫大な富も失われたし、さらに一部の豪商も破綻する始末だった。富貴を極め栄華に浴していた豪商たちは、商売活動の残酷とリスクを深く認識してから、生活哲学を磨かざるを得なかった。そして、不景気の時局に鑑みて、近江商人達は先人の奢りを戒めて商売活動に力を注いだばかりでなく、改めて営利活動を積極的に認め、客を本としての思想を確立し始めた。のみならず、商人たちに、武家社会と折り合いをつけながら、独自の生活哲学とリーダー学に磨きをかけるよう促す。
それぞれの家訓、店訓などもその時局をきわめて明確に反映した。最も忘れられないことは、梅岩の考え方で、商人が「他人を思いやる心、仁」「人としての正しい心、義」「相手を敬う心、礼」「知恵を商品に生かす心、智」の4つの心を持てば商売はますます繁盛する、と説いた。さらに、豪商の真摯な生き方、商いの哲学を代表的なものが、中井源左衛門の「神仏に誓い、商いの信念にし、遺言として子孫に強調したのは始末第一に仕事に励むことと陰徳を積むことであった。」である。日頃から心の研鑽を積み、自己を鍛えることによって、長者になる。自分自身の衣服、食事の奢りだけでなく、心の奢りがいけなく、かえって人に知られないひそかに善行を施すことを戒めていた。それは先利後義つまり義を先にして、陰徳を積みながら、自分が始末第一、利を後にする者こそが栄えて義商になるための極意だというのだ。また、江戸時だの初期には幕府と結びついた特権商人、御用商人とは対照的に、庶民を相手に商いをして、越後屋を日本の指折りほどの店にした三井高利の人生観を紹介したい。「宗寿(高利)がいわれるには、囲碁または博打など、商売以外のことに楽しみを求めるの別のないことだ。昼も夜も一生懸命に商売に励めば、その規模は一日一日大きくなり、業績も上がるものが楽しみの第一だ。それを苦労と思うのは、とんでもない考え違いだ。」それだけでなく、親の勤勉ぶりを見習った高利の長男、高平は、「勤勉は家を富ませ、奢りは身を滅ぼす。勤倹に励み、奢りをつむことこそが、一族繁栄と子孫永遠の幸福の基である。」といった遺訓を残していた。父高利は最初から手広く商いをしないで、僅かな資金で開業したから、勤勉と倹約ぶりの影響で、そういった心境をもっていた。源'自:优尔`!论~文'网www.youerw.com