「第二の手記」は、中学から高校時代、相変わらず続いて人間恐怖による「人間不信」及び「絶望」の中で、中学時代彼の完璧の演技を見破った白痴に似た竹一は、葉蔵に「女に惚れられる」「偉い絵描きになること」と二つの予言をした。上京した葉蔵は、下町生まれの画学生堀木のせいで学業をそっちのけで、タバコと酒に溺れてしまった。それによって人間恐怖を紛らせた。そして、葉蔵と銀座のカフェの女給に心惹かれ、やがて彼女と心中未遂事件を引き起こし、自分だけ助けるという経緯である。

第三の手記では、竹一の「女に惚れられる」という予言は当たり、「偉い絵描きになること」という予言は外れたが、葉蔵は下手な漫画家になり、女記者やバーのマダムの男妾のような形で同棲し、マンガや春画を描いた。やがて汚れを知らない処女のヨシ子と内縁の妻として迎えたが、ヨシ子は小商人に犯された。葉蔵は、酒に溺れ、自殺を測り、モルヒネ中毒の地獄に落ちて、連れ込まれたのはサナトリウムではなく脳病院だった。父が亡くなってから、廃人の身は故郷に戻った。来!自~优尔论-文|网www.youerw.com

おおまかにその大筋を辿って見ると以上のようになり、「私」の手になる「はしがき」と「あとがき」に、大庭葉蔵の三つの手記を挿むという構成をとっている。

2.2.2『人間失格』の創作背景

『人間失格』連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられてきた。実際、本作の後に「グッド・バイ」を書いているものの未完であり、完結作として本作が最後である。この小説は主人公の過去について太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説とも考えられている。『人間失格』は、太宰の生涯と文学の総決算である。陽羅義光はこの作品について以下のように述べている。

「『人間失格』を太宰治の「遺書」(正確には遺書的作品)と見る人が少なくない。文芸評論家はもちろん、一般読者としても、そう考えても不思議はない。そしてそう考える人の多くは、『人間失格』を太宰治の私小説(もしくは自伝的小説)として読んでいる」 

日本で「無頼派」と言う言葉を使い始めたのは太宰治であるといわれている。二戦後の日本国内、「無頼派文学」がだんだんブームになってきた。当時の作品には反逆精神、自分に対する厳しい批判、含羞の身悶え、常に日本の現実から目を離さず、それに突き刺さす運命を共にする決意、作品の巧み、感性の鋭敏さという共通の特徴があったためであり、また彼らの作品世界及び実生活が時に放蕩無頼の一面を持ったからとも言えるであろう。 「昭和文学の消えない象徴」としての太宰治は無頼派的な「自殺」でその文学生涯を終えると同時に、無頼派文学の中止も迎えきた。

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