2時代背景
昔の中国は地域が広く、人数が多い封建大帝国であり、発達の経済実力と自給自足の生き方で鎖国の政策が行われた。イギリスは銀の国外流出を抑制するために、アヘンで中国の閉めたドアを強硬に開き、数年間の貿易収支が逆転した。中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代からアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に何度も禁止令を発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内アヘンの取締も効果がほとんどなかった。民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたとともに、清は1840年第一次アヘン戦争に負けてしまって、香港を割譲して広州(以前の広東)、厦門、福州、寧波、上海、共に五つの港が開港される不平等な「南京条約」を締結した。この条約は中国が主権国から半植民半封建国に落ちてしまったのを象徴する。
しかし、西洋列強が奪った利益に満足していない。また、中国の国内の不満な声が高まっていたとともに、しばしば外国人排斥運動が行われた。こういう状況で日清関係がますます悪くなるに従って、アロー号事件とフランス宣教師を逮捕斬首事件を言い訳で英仏連合軍から第二次アヘン戦争を起こした。アロー戦争(第二次アヘン戦争とも呼ばれる)は北京条約の締結を象徴として終了した。
これから中国は益々半植民半封建国になっていた。19世紀末の甲午中日戦争、特に第二次世界大戦の発端(中国の学者の言い方)として1937年全発的な抗日戦争で極めて危険な状況に落ちてしまった。それとともに、欧米列国は中国の地域でそれぞれの租界を設置し、中国の主権をひどく侵略してしまった。当時の中国はめちゃくちゃに破壊された。こういうような背景で、芥川龍之介のような日本人作家は度々中国へ、特に東洋のパリという名誉を享ける上海へ取材に来た。村松梢風もその取材流の一人として、創作の抱負を抱き、何回も中国へ訪れた。
2.1同時期の日本の状況との比べ
国力が低下になっていた中国と比べて、同時期の日本の実力が逆にどんどん上昇していた。アヘン戦争以後、日本も例外ではなく西洋列強による帝国主義の波に巻き込まれた。尊王攘夷という思想が広まっているとともに、慶応三年に明治維新の倒幕運動が始まった。富国強兵の巨大な成功をもらった後、日本の地位は諸外国から驚いたほど飛躍的に高まり、アジアでは目立つ場を占めた。また、日本はアジア諸国では数少ない植民国にならなかった国として、まもなく西洋列強側の国家となった。
日清戦争で中国に勝った後、日本は朝鮮半島とロシア主権下の満州南部を目指し、日英同盟に基づき日露戦争を発動した。日本は満州を獲得する最大の目標を達成し、次々の勝利で日本軍国主義の野心が速やかに膨大してきた。それで日本は再び目標を国土が広く物産が豊かである隣国の中国に目を向けた。
明治維新の成果に恵まれ、西洋雰囲気が流行っていた日本では、多くの日本人が西洋文化を身近に体験するために、一番近い都会の上海を選択する。特に前世紀の20年代頃長崎から上海への航路を運営し始め、中国へ行く日本人が急に増加してきた。
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