3.1.1芭蕉出発時の準備 4
3.1.2 最初と最後の出発 5
3.2 様々な人物との「別れ」 5
3.2.1 西行との「別れ」 5
3.2.2 友人との「別れ」 6
3.2.3 他の人との「別れ」 7
4. 「別れ」について杜甫との比較 8
4.1杜甫受容 8
4.2滅びた国への「別れ」の異同 8
5.おわりに 10
参考文献 11
1.はじめに
松尾芭蕉(1644~1694)は日本最大の俳人の一人といわれて、「俳聖」とも呼ばれている。もともと卑俗、こっけいを旨とする俳諧は彼によってまじめな芸術になる。彼の幽玄閑寂の誹風―「芭風」はさび、しをり、細み、軽みという言葉を旨として、著しく流行している。芭蕉の作品は「俳諧集」、「紀行文」、「俳文·日記」、「俳論集」四つの部分に分かられる。1702年刊である『奥の細道』は規模が最大で、その誹風と人間観、芸術観を徹底させて、また彼の紀行中最も長編でかつ最も有名な傑作とされる。 『奥の細道』は紀行文学の至宝であることは、昔も今も変わらない。だから、芭蕉のことといえば、『奥の細道』を言及しなければならない。
『奥の細道』は芭蕉が奥州を旅行した際の記録で、紀行文と俳諧から構成される。それに、昔から日本の文学は中国の文化から大きな影響を受けて、『奥の細道』も例外ではない。江戸時代から、様々な角度から『奥の細道』を詳しく研究する人が多い。まず、芭蕉の中国の受容についての研究は多く、詩聖杜甫との比較研究も少なくない。それから、旅自身について、「『奥の細道』における旅について」 という論文は江戸時代の制度と社会背景を詳しく研究する上で、旅そのものに注目し、さらに芭蕉の古寺巡礼に焦点をあて、その文化的意義を探求する。
しかし、旅行といえば、「出会い」と「別れ」は一番多い。『野ざらし紀行』の中の「命二つ中に活きたるさくらかな」と「手に取らば消えんなみだぞあつき秋の霜」も「出会い」と「別れ」の典型的な例である。細やかな描写、鮮やかな比喩、擬人表現と悲しい風格は段々「別れ」を描いた時の特色になる。様々な場合でいろいろな人物と離れるとき、芭蕉はどんな態度を抱いたか。悲しいかあるいは気にしないか、別れがたいかあるいは急き込むか。今までの研究では、「別れ」という話題に及ぶ論文がまだ少ない。本論文は江戸時代の制度を背景として、従来の研究を踏まえて、『奥の細道』の中の「別れ」を検討する。それから、旅中の「別れ」について、芭蕉と杜甫の異同点を論述する。
2.『奥の細道』の成立について
2.1江戸時代の社会背景
江戸時代は1603年(慶長8)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて、江戸(現在の東京)に徳川幕府を成立してから1867年(慶応3)に大政奉還までの264年間を指す。近世ともいう。
江戸時代も徳川幕府を中心にして諸藩を地方に置く幕藩体制の時代である。幕府は江戸の辺りや全国の重要な地方に新藩や譜代大名を置き、外様大名ははるか遠い地方に配置した。それから、三代の将軍家光のときから参勤交代制度を設立した。参勤交代は江戸幕府の諸大名と旗本たちは課差なければならない義務の一つ。原則によると一年置きに石高に応じた人数を率いて、江戸の屋敷に居住して、幕府将軍の統師下に入る制度である。 参勤交代制度のおかげで、江戸時代の交通はどんどん便利になった。