しかし、中国のネットユーザーのコメントを一通り目を通すと、この映画にすすり泣くまで大きい感動を持っている人が少ないことが分かる。戦争の罪悪をすっかりと取り除くし、それに家族のため全力を尽くして生きる者、最後に国のため特攻を選んだヒーローを見せた。最終に、紛う方ない犯罪の史実を幾重にも包まれ美化され、逆に涙を流すほど感動する商業フィルムと変身してスクリーンで公開された。これだけ見れば、作者百田尚樹と映画監督の腕前がうまいと言わざるを得ない。
同様に零戦を主題にしたアニメ『風立ちぬ』の映画監督宮崎駿は「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている……負けた戦争なのに」と批判した。これに対して、著者である百田尚樹は「『永遠のゼロ』はつくづく可哀想な作品と思う。文学好きからはラノベとバカにされ、軍事オタクからはパクリと言われ……宮崎駿監督からは捏造となじられ……まさに全方向から集中砲火」とコメントした。したがって、『風立ちぬ』と『永遠のゼロ』、宮崎駿と百田尚樹を比較して論述した研究が大いに行なわれてきた。比較法を採用したとはいてっも、二種類に別けられる。一つは、共に批判の対象として、「曖昧な戦争観を持っている」「日本が他の国に壊滅的損害をもたらしたことにまったく注目しなく、さらにはわざと避けた」という結論を出した。もう一つは、それぞれ左翼と右翼の代表として比べられた。论文网
1。1先行研究
先行研究によると、中国学者は常に批判な態度を持っているが、日本学者は賛否両論があるということが分かる。ほかに、「『永遠のゼロ』の小説が旧日本軍上層部に対する批判や、特攻という作戦そのものへの批判などをしっかりと書き込んだ。映画は時間の制約が大きくて、小説の要素すべてを入れるのは無理だから、軍部批判や特攻批判の要素が薄まってしまい、まったく別の作品となってしまった」という新観点も挙げられる。
2014年に高义吉、山本政俊は歴史の面から、「真の歴史に直面する」と呼びかけた。2015年に蘇往は『永遠的零:進化中的軍国主義泪弾』で、「個人悲劇の描写を通じて観客に『涙の爆弾』を投下した。軍国主義は仮面をかぶった」と批判した。その他、平島正司は「家族物語みたいな筋書きを通して、論理性で政治性を覆い隠す」と述べた。
その中で最も代表的なのは『永远的零:进化中的军国主义“泪弹”』だ。「個人悲劇の描写を通じて観客に『涙の爆弾』を投下した。軍国主義はこの映画の袈裟な苦情劇を通して新しい進化方式が手に入れる:みんなを涙が集まった海に浸させ、幻覚剤を飲んだように軍国主義との共感を覚えさせ、その結果本来の観念から離れ、設定された方向へ導く」と非難した。作者は宮崎駿のアニメ『風立ちぬ』と日露戦争を描写した『二百三高地』と比べ、「もともと戦争に嫌い主人公が最後に殉国のヒーローになった」「人道主義で軍国主義を美化する」という共通点を見出した。そのほか、主人公が厭戦しながら、侵略戦争そのものを疑ったことは一度もないということ見出した。これによって、作者が「二戦に関する日本映画の大多数が以下の二点しか関心を持っていない:日本が敗れた。より正確に言って、アメリカに負けた;戦争が不幸だった。注意しなければならないのはこれが日本国民の立場からの不幸だった。しかし、日本が他の国に壊滅的損害をもたらしたことにまったく注目しなく、さらにはわざと避けた。」という結論を出した。