BOOK1、BOOK2では、スポーツインストラクターであると同時に暗殺者としての裏の顔を持つ青豆を描いた「青豆の物語」と、予備校教師で小説家を志す天吾を主人公とした「天吾の物語」が交互に描かれる。BOOK3では二つの物語に加え、青豆と天吾を調査・探査する牛河を主人公とした「牛河の物語」が変わる。福山和也(2012)は「1Q84」について、 「天吾と青豆、そしてBOOK3に至って牛河の三つの視点から描かれていく。視点の交錯は、小説の空間性を広げるだけでなく、読者の自由を確保する。多様な登場人物や様々な勢力がそれぞれの思惑で動いている」と述べている。
村上春樹の「1Q84」は2009年出版されて以来、日本社会に大きな影響を与えている。「1Q84」における暴力描写の頻度もこの前の作品に比べ、一層高い。日常的暴力、例えば、ドメスティック・バイオレンス、心の傷、近親相姦、レイプを含めるだけでなく、侵略戦争、テロ及び責任感を持たない社会体制、それから個人の自由、魂などを抑圧する邪教組織、宗教団体、大衆を騙すメディアなども含まれているのである。日本社会やシステムの矛盾と暴力性が指摘されているのは「1Q84」の一番の特色だ思われており、精神や制度の暴力も人々を傷つける武器となっている。先行研究では、村上の教育体験や日本社会環境や政治制度などから「1Q84」における暴力性が分析されているが、その他の分析はまだされていない。従って、本論文ではテクスト分析と関連させた歴史文化研究などの手法を用いて、「1Q84」における暴力性を論じる。
1。2先行研究と本研究の立場
霍芳芳は《<1Q84>与日本社会的暴力性》で、日常的暴力、そのシステムティック暴力、そして、文化という視点からの日本社会における暴力の根源という四点から、日本社会における暴力性を分析している。「1Q84」に対する分析は詳しいが、当時や現代の日本社会に存在する暴力性に対する分析は足りないと思われる。张昭质(2011)は「1Q84」での暴力性について、主人公の天吾と青豆の体験を中心に暴力性を分析している。しかし、張(2011)は天吾と青豆が家族の面から受けている暴力性をよく分析しているが、集団やシステムから受けている暴力性の分析に欠けているので、不十分であると思われる。村上は暴力描写を通して、日本社会や文化における暴力性を指摘していることを杨超(2006)は《村上春树作品暴力性的由来》で述べている。杨(2006)は発達した資本主義社会、歴史と日本社会への反省、第二次大戦後民主運動の体験と村上春樹作品での暴力性の発展という四点から、村上の作品での暴力性の原因を論じている。そして、村上は戦争暴力性だけでなく、日本社会の暴力性を批判していることを杨(2006)は指摘している。しかし、李雁南(2013) は《在文本与现实之间》で、政治は虚偽で、人々の自我意識を強引にコントロールする邪悪な力だと村上は理解している。そして、「1Q84」で精神の暴力と肉体の暴力の概念が混じり合い、村上が本当に批判したいものははっきりしなくなるという欠点があると指摘している。林少华(2010)も《<1Q84>当代<罗生门>》で、李(2013)と大体同じような観点を持っている。そして、村上は「1Q84」の中で善悪の概念が混じり合い、知識人や作家としてこの社会の欠点を指摘し、人々を呼び覚ます責任が果たせないと主張している。