2。1島津斉彬に頼まれた使命

島津氏は第28代当主であり、幕末の四賢侯の一人でもある。父は薩摩藩の第10代藩主の島津斉興であった。母は幡鳥取藩6代藩主の池田治道の娘の周子という人である。正室英姬は一橋家徳川斉敦の娘である。中国の清朝がアヘン戦争を経験した後のこの期間、彼が薩摩藩の政権を握った時、中国清朝に対しての列強の植民地化にとても震撼された。まだ、彼は曽祖父である第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。藩主に就任すると、藩の富国強兵に努める。藩内にたくさんの建設性の発展を作り出しただけでなく、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通等の若い侍を登用して朝廷での政局に関わることで、明治維新の少なからぬの人材を養ってきた。薩摩藩自分自身の実力をアップするとともに島津斉彬は他の大藩藩主の福井藩松平春嶽、土佐藩主山内容堂等と日本の政局に参与してずっと幕府に影響を与える。特に、斉彬は「黒船来航」の後に、もっと積極的にもとの幕末の鎖国政策に反対し、公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。当時の幕府将軍徳川家定の正室及び後妻は相次いで亡くなるので、嗣子が問題になる。老中・阿部正弘の死後、御三卿の一人の一橋徳川家の徳川慶喜を擁立した一橋派と紀州藩主・徳川慶福を支持した南紀派というこの両派が互いに将軍継嗣をめぐって激しい争闘が現れた。島津斉彬が支持した一橋派はもっと力強く南紀派の幕府の新任大老近江彦根藩16代藩主井伊直弼と対抗するように、信頼できる島津氏のある王女に徳川家定と結婚することで、彼女が将軍の嗣子が生まれるあるいは徳川家定に影響に与えることで 徳川慶喜の即位を支持させた。島津斉彬はそして彼が代表した势力がそんなことをするのは、ただ幕府や诸藩および主朝廷の間で幕府は権力が委譲でき、各藩に対してのコントロールがゆるがせにできるという関わりを改めて调整できることを望んでいるのであった。つまり、篤姫に将軍家に嫁がせることは薩摩が幕府に取って代わることではなく、影響力を増やすだけである。島津斉彬は自分の親族の中でこの任務の候補者を探しているが、自分の娘の三人はこの重任を担当する年齢に足りないので、島津斉彬は島津忠剛と二人の年齢は同じくらいで、仲も良く、左右の腕の人材であった。そして島津忠剛の娘於一は思想が柔軟で、ルールにこだわらず、まだつよい政治敏感性をもった女だと年长者に思われた。だから、大奥で生きていけ、更にこの重任を達成できる人、島津斉彬がそう思う。等级制度がはっきりしていた当時の日本で将軍の奥さんは所謂公家或いは摄家、即ち朝廷の皇亲貴族或いは摂政重臣から選ぶということで、外样大名の養女の身元だけで徳川家定の正室になるのは資格がまだ足りないとされた。そのゆえ、島津斉彬は篤姫を養女として権臣の近衛忠煕に転送され、「敬子」という名を変えさせた。このように、篤姫身分の三段跳びを経験して徳川家定の御台の候補の一人になった。篤姫の前に、第11代将軍徳川家斉の奥さんも薩摩藩島津家の娘であり、徳川家に息子をも生まれたのでもあるというわけで、篤姫が当時の候補者に頭角を現せる重要な理由になるかもしれないのであった。篤姫の立場から言えば、身分の転換を何度も経て、最後には御台になったが、養父が知恵を絞って育てることで、寄せられたどれほどの期待や使命がよく分かった。

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